
※この素材はタイムコードをご指定後、別途納品となる素材です。
※使用許諾後、動画編集画面に進み、タイムコードにてカット部分をご指定ください。
※使用の有無にかかわらず、納品時にデータ納品料及び指定タイムコード分の使用料がご請求となる素材です。
特輯 聖戦4年 想起せよ② 南京に国民政府樹立
【広東攻略成る】
中国沿岸の封鎖によって、蒋介石への援助物資の8割は、広東方面から搬入されていた。
この補給を絶つため広東攻略作戦が計画され、昭和13年10月12日、香港北東のバイアネ湾に奇襲上陸し、21日、広東を攻略した。
内容:
バイアス湾北岸に奇襲上陸する第21軍の将兵。
広東市街に突入する日本軍。広東市内を入城行進する将兵。
【武漢三鎮攻略】
戦線不拡大の方針は徐州会戦によって崩れ、さらに武漢作戦へと進展した。
武漢三鎮は昭和13年10月27日攻略し、この間の作戦で敵の遺棄死体は14万を越えた。
内容:
揚子江を低速で進む海軍の艦艇。
連隊旗や軍艦旗を先頭に漠口市街を行進する陸海軍部隊。
【海南島攻略】
広東の占領で、援薄物資の輸送はハノイ・ビルマの両ルートに移った。
この両ルートを攻撃する航空基地を確保するため、海南島を攻略することになり、昭和14年2月10日に海口を、14日に三亜に上陸した。
内容:
海南島上陸作戦の水上機や戦車隊。
港口、瓊山を占併し、市街を行進する陸海軍部隊。
【南昌攻略作戦】
蒋介石総統は、昭和14年に入ると大陸全線で「4月攻勢」を唱え、特に南昌周辺には、17~18個師の大軍団が反攻を目ざしていた。
そこで、中支派遣軍の第11軍は機先を制することになり、3月13日から南昌攻略作戦を展開し、27日南昌を攻略した。
内容:
雨中を南昌へ進む陸軍部隊。
南昌市街地を砲撃する八九式中戦車隊と、突撃する歩兵部隊。
南昌を占領し、万歳を三唱する将兵。
13、14年に日本軍が占領した広東、漠口、岳州、海南島、海州、南昌、汕頭などを説明するアニメーション。
【オルドス平原の破滅戦】
中国軍は、昭和14年12月、北は豪疆から南は南寧に至る中国全土で-斉に反攻を開始した。
豪疆では、12月20日、包頭の騎兵集団が討伐戦に出撃した間隙をつかれて攻撃されたため北支方面軍は、15年1月28日、五原付近の掃討作戦を開始し、零下30度の厳寒のオルドス平原を進撃し、2月3日、五原を攻略した。
内容:
オルドスの大平原に砲列をしく砲兵隊の射撃、作戦に参加のトラック部隊、寒風をついて進む歩兵部隊。
五原を占領し、入城する陸軍の将兵と績み荷を運ぶラクダ。
【重慶空襲】
昭和15年の重慶爆撃は、天候が回復した5月17日から開始され、9月5日までの3か月間に、漢口などを基地に九六式陸上攻撃機130機が参加した。
重慶爆撃は、蒋政権を屈服させて、支部事変を早期に解決する戦略だと考えられていた。
内容:
雲海上を重慶に向う九六式陸上攻撃機の編隊。
眼下の重慶市街地に爆弾を投下する九六式陸攻。
【南京に国民政府樹立】
南京の維新政府と北京の臨時政府が合体し、昭和15年3月30日、南京に国民政府が樹立し、汪兆銘が主席となった。
汪兆銘は、蒋介石と並んで中国辛亥革命の先覚者であったが、大勢を動かすには至らなかった。
内容:
南京の国民政府大礼堂で行われた国民政府遷都式典。
【宜昌攻略】
蒋介石軍は、昭和14年末から15年にかけての冬期攻勢に続いて夏季反攻を計画し、武漢方面では50個師余りが配置されていた。支那派遣軍はこれらの中国軍を漠水東岸で包囲し、宜昌付近で撃滅する宜昌攻略戦を5月1日から開始し、1日平均20キロ以上という激戦を展開し、6月12日、宜昌を占領した。
宜昌は重慶から450キロの要衝で、ヨーロッパではパリが陥落し、重慶政権内部では抗戦・和平両派の分裂が激化していた。
内容:
揚子江を進む海軍砲艇隊。
川を渡る歩兵部隊。
敵陣を攻撃する重機閑銃隊。
宜昌市内を行進する陸軍部隊。
昭和15年に日本軍が占領した地の欽州、南寧、宜昌を説明するアニメーション。