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特輯 聖戦4年 想起せよ① 帝国遂に決起 徐州会戦
【中国大陸に戦火拡大】
支那事変が起ってから4年、不拡大の方針はくずれ、戦火は中国大陸の北から南へと拡がった。
この4年の主な回顧録である。
内容:
支那事変発端の地、蘆溝橋付近の一文字山に建てられた記念碑、蘆溝橋(長さ270メートル、幅7メートル絵大理石造り)。
事変の由来を説明するアニメーション。
【大山事件突発】
12年8月9日、上海特別陸戦隊の大山勇夫中尉(当時)は、上海虹橋飛行場付近で中国保安隊の襲撃をうけて死亡し、上海の情勢は険悪の度を加えた。
12日には、上海付近に集中する中国軍5万の動きが活発となり、一触即発の状態となったため、上海の特別陸戦隊4,000は非常警戒をとった。
翌13日、八手橋地区で中国軍が砲撃を開始し、戦火は中支に波及した。
内容:
大山海軍大尉が襲撃された現場と、大山大尉らの乗っていた自動車。
大山海軍大尉の葬儀。
上海攻防戦に出撃する戦車。
爆撃する水上機と、大砲や艦砲の射撃。
陸戦隊本部屋上からの砲撃。
上海市街地で銃撃する装甲車。
砲撃によって崩れる建物や砲火で上る黒煙など、上海市街戦の模様。
「南京渡洋爆撃】
上海、戦火、日本側、陸上基地、制空権、12年8月15日九州、大村基地、南京、海軍、攻撃機20機、渡洋爆撃
内容:
大村基地でエンジンを始動し整列する九六式陸上攻撃機。
基地隊員に見送られて出撃する搭乗員。編隊飛行の九六式陸攻。
【杭州湾上陸に成功】
上海の攻防戦は、堅固な陣地による中国軍と苦戦が続き、この戦局を打開するため、杭州湾に陸軍第10畢の2個師団を上陸させて、上海を側背から攻略することになった。
杭州湾上陸作戦は、12年11月5日行われ”日軍百万上陸”のアドバルーンを上げ、奇襲に成功した。
内容:
杭州湾に向う輸送船団。
煙幕を張る護衛の艦隊。
敵前上陸に成功の第10軍の将兵南京目ざして進む戦車隊や砲兵部隊の射撃。
【敵首都陥落】
杭州湾についで揚子江の白茆口への上陸に成功してから上海の攻防戦は戦況を一変し日本側に好転した。
陸軍参謀本部は当初、戦線を拡大しない方針であったが、中国軍の抵抗が弱まり、12月1日、中支那派遣軍に対して南京攻略を命じ、13日、南京を陥落した。
内容:
南京城内への砲撃。
南京城内に突入する戦車隊と連隊旗を先頭に入城する部隊。
国民政府公館の屋上に日章旗を掲げ万歳をする兵。
申支派遣軍司令官松井石根大将らの入城式。
【「国民政府相手にせず」と声明】
昭和13年1月11日に開かれた御前会議で、支那事変処理根本方針が決定した。
しかし、日本側の示した解決条件に対し中国側の回答が得られず、16日、政府は「国民政府を相手にせず」の近衛声明を発表し、事変の早期解決の望みを自ら絶った。
内容:
御前会議に出席のため、宮中へ参内する閑院・伏見陸海両幕僚長と近衛首相。
「帝国政府は蒋国民政府を相手とせず」という政府声明を発表する風見草書記官長。
【帝国遂に決起 徐州会戦】
徐州北方の台児荘方面の戦闘で、日本軍は苦戦を続けた。
昭和13年3月ごろ、徐州周辺に蒋介石直系の湯恩伯軍など50万から60万の大軍が集結したため、4月中旬から北支方面軍と中支派過軍10個師団を動員して、徐州作戦を開始した。
中国軍の頑強な抵抗を受けながら包囲殲滅戦を展開し、5月19日、徐州を占領した。
火野輩平の「麦と兵隊」は徐州会戦従軍記である。
内容:
徐州作戦に参加した砲兵隊の射撃と、戦車・騎兵・歩兵部隊の進撃。
徐州入城祝賀会(5月25日)で、祝杯をあげる北支那方面軍軍司令官寺内寿一大将と中支那派遣軍司令官畑俊六大将ら。
支那事変1年間に日本軍が占領した北京・上海・南京などの地図アニメーション。